ヤギ先生の世界史教室

現役教師です。高校世界史のノートなど勉強に役立つ情報をアップしていきますので、よろしくお願いします。

【ノート】西洋史18.フランク王国の発展

Why ①なぜフランク王国ゲルマン人諸国の中で有力となり、ヨーロッパの統一に成功したのか。

   ②なぜカールの戴冠は歴史的に重要な出来事なのか。

 

【1】フランク王国の発展 

※要因:①カトリック(アタナシウス派)への改宗  ②ローマ人との融合

[1]メロヴィング朝の成立

●481年 メロヴィング家のクローヴィス(位481~511)がフランク人を統一(パリ中心)

     ⇒ ガリ中部まで領土を拡大 ⇒ 東ゴート王国とならぶ強国となる。

●496年 クローヴィスの改宗(1) …キリスト教の正統派アタナシウス派に改宗

 ⇒ローマ=カトリック教会と関係を深め、ローマ人貴族を支配層に取り込み、その権威を継承。

※他のゲルマン諸民族は異端派のアリウス派のキリスト教を信仰

アタナシウス派アリウス派の違いを説明できるように。

 ●6世紀なかば、ガリア南東部のブルグンド 王国を滅ぼし、全ガリアを統一

 ●8世紀 メロヴィング朝が衰退、宮宰(マヨル=ドムス)(2)が実権を握る

[2]イスラームの侵入 …ウマイヤ朝の勢力が北アフリカに及ぶ

 ●711年 イベリア半島に侵入、西ゴート王国を滅ぼす⇒ピレネーを超え、ガリアに侵入

 ●732年 トゥール・ポワティエ間の戦い(3)

  ⇒フランク王国の宮宰カール=マルテルが活躍し、イスラーム軍を撃退

[3]カロリング朝の成立(751)(4)…カール=マルテルの子ピピンが王位を奪う

  ⇒ ローマ教皇ステファヌス2世からフランク王国の王位を認められる

●754年 ピピンの寄進(5) (6)…ピピンラヴェンナ地方ローマ教皇に寄進

              (ローマ教皇にフランク王位を認めてもらった返礼として)

  意義:ローマ教皇領が成立して大領主となる第一歩となり、フランク王国との結びつきが強まった。

【補足】

(1) クローヴィスが改宗したのは496 年。カトリック正統のアタナシウス派に改宗。妻のクロティルドがカトリックであったことも影響。他のゲルマン人の多くは異端のアリウス派を信仰。

(2) カール=マルテルがつとめた 宮宰 という地位は“家政の長”。メロヴィング家に関することを取り仕切る立場。

(3) 732年にカール=マルテルがトゥール・ポワティエ間の戦いで破ったのは、アフリカ北部を渡ってイベリア半島を北上してきたイスラム王朝の ウマイヤ 朝の勢力。

(4) ピピン751年にカロリング朝を創始。

(5) ピピン教皇に寄進したラヴェンナ地方は ランゴバルド 王国の故地(一部)。

(6) この「ピピンの寄進」がのちの教皇の始まり。

 

【2】カール大帝による繁栄   

  ※カール大帝は仏語でシャルルマーニュ

現在のフランス、ドイツ、イタリアとその周辺にまたがる大帝国となり、後の西ヨーロッパ世界となった。

[1] カール大帝(位768~814) …フランク王国カロリング朝ピピンの子

【外征】

 ●一代で領土を拡大し、西ヨーロッパの大部分をフランク王国領に

 ●北イタリアのランゴバルド 王国征服、ドイツ北東のザクセン人を服従させる

  ⇒ ゲルマン諸部族の大部分が統合され、ローマ=カトリックに改宗進む         

  東方 パンノニア(現ハンガリー)に侵入したアルタイ語アヴァール人を撃退

  南方 イベリア半島に進出してイスラーム勢力と戦い、北東部(カタルーニャ地方)を領有(7)

【統治】

 ●全国を州に分けそれぞれにを置き、巡察使を派遣して監督(8)

  ※国境地帯には辺境伯を置く ⇒ 中央集権的に支配 ⇒ ビザンツ帝国と並ぶ大国に

 ●カロリングルネサンス(9)…アルクインを招き、古典文明の復興を目指す

[2] カールの戴冠(800年)(10)

ローマ教皇レオ3世が、カール大帝ローマ皇帝の帝冠を与える

   =「西ローマ帝国」の復活を宣言する意味

  【背景】聖像崇拝問題でビザンツ皇帝と対立していたローマ=カトリック教会が政治的保護者を求めたため。

●歴史的意義 

 政治上:西ヨーロッパ世界を安定させ、ビザンツ帝国に対抗する政治勢力が成立した。   

 文化上:古典古代・キリスト教ゲルマン人からなるヨーロッパ文化圏が成立した。    

 宗教上:ローマ教会ビザンツ皇帝から独立し、西ヨーロッパでの権威を確立した。     

地中海世界の分裂   

 西ヨーロッパ世界:宗教面ではローマ=カトリック教会、政治的にはフランク王国が支配する世界。

 東ヨーロッパ世界:宗教面のギリシア正教会と政治面でのビザンツ帝国が一体となった世界。

 イスラーム世界:イベリア半島、イタリア南部、小アジア北アフリカイスラーム勢力が支配。

(7) カール大帝が破ったイベリア半島イスラム王朝後ウマイヤ 朝。

(8) カール大帝は各地方にを設置して軍事・行政・司法を委ね、巡察使を派遣してそれを監視。アケメネス朝のダレイオス1世が行ったサトラップ制と似ている。

(9) カール大帝は民族移動で荒廃した文化を復興。これをカロリングルネサンスという。

(10) 800年のカール大帝の戴冠は、形式上の 西ローマ帝国の復活といえる。

 

 

【ノート】西洋史17.ゲルマン人の大移動

中世ヨーロッパとは…4~14,15世紀の約1000年間

始まり:ゲルマン人の大移動の開始(375年)またはローマ帝国の東西分裂(395年)

終わり:大航海時代ルネサンス宗教改革など一連の近代化が始まる直前の14,15世紀

 

Why ①なぜ、ゲルマン人は西ヨーロッパへ移動したのか。

    ②なぜ、ゲルマン人の大移動は歴史的に重要な出来事とされるのか。

 

【1】ゲルマン人とは

[1] 原住地と勢力の拡大

 ケルト人…紀元前 6 世紀ごろからアルプス山脈以北にひろく定住(原住民)

 ゲルマン人…バルト海 沿岸が原住地・インド・ヨーロッパ語族

ゲルマン人紀元前後ころから、ケルト人を西に圧迫しながら勢力拡大し、ライン川から黒海にいたる広大な地域に広がる。

 ⇒ 西側はローマ帝国の国境を脅かす

 ⇒ 9年 トイトブルクの戦いローマ皇帝アウグストゥスの派遣したローマ軍を破る

[2] ゲルマン人の社会

ゲルマン人社会を知る重要史料

 ①『ガリア戦記カエサル

 ②『ゲルマニアタキトゥス

  ① 数十の部族。それぞれに王や首長

  ② 貴族・平民・奴隷の身分差

  ③ 重要な決定は成人男子自由民の集会である民会で議決

  ④ 狩猟・採集の生活から農耕社会へ ⇒ 人口増加 ⇒ 耕地の不足 ⇒ 民族移動の一因

 ※大移動前(3C~375年)まではローマ帝国内に平和的に移住

  =下級官吏・傭兵(雇われの兵)・コロヌス(隷属農民)として

 ⑤ 多くのゲルマン人はニケーア公会議(325年)で異端とされたアリウス派を信仰

 

【2】ゲルマン人の大移動

直接原因…4世紀後半、アジア系フン人がドン川を越えて西進。東・西ゴート族を圧迫。

移動の開始…375年、西ゴート族が南下開始。ドナウ川をわたってローマ帝国内に侵入

  ⇒ その他のゲルマン諸部族も大規模な移動を開始。

  ⇒ 以後約200年におよぶゲルマン人の大移動が始まる。

※同時期、東アジアでは魏晋南北朝時代(動乱の時代)。その後、隋・唐という王朝国家が出現。

 

【3】大移動に伴う重要事項

フン族アッティラ パンノニア(現在のハンガリー)に大帝国を樹立

 ⇒しかし、451年のカタラウヌムの戦いで東西ゴート・フランク・ローマ連合軍に敗北

476年 ゲルマン人傭兵隊長オドアケルにより、西ローマ帝国 滅亡

③ 493年 オドアケル東ゴート王国テオドリック大王に敗れる

フランク王国のみが長期の繁栄

 

【4】各部族の動き

建国地

王国名(存続期間)

動向・滅亡

イベリア半島

西ゴート王国(418~711)

一番初めに移動開始。アラリックに率いられ、ローマを略奪(410年)、その後ヴァンダル人を追い出して建国。

8世紀 イスラーム王朝のウマイヤ朝に征服される。

北アフリカ

ヴァンダル王国(429~534)

西ゴートに追われ、最も遠くまで移動。ガイセリック王はローマを掠奪(455年)。地中海貿易で繁栄。

6世紀 ビザンツ帝国ユスティニアヌス帝が征服

イタリア半島

東ゴート王国(493~555)

フランク王国とならぶ大国となるも、テオドリック大王の死(526年)により衰退。「ゴシック」はゴートが由来。

6世紀 ビザンツ帝国ユスティニアヌス帝が征服

北イタリア

ランゴバルド王国(568~774)

東ゴート王国と異なり、ローマ化する度合いが少なく、ローマの伝統の多くはここで断たれた。後のロンバルディア地方。8世紀、フランク王国カール大帝が征服

ガリア北部

フランク王国(481~843)

フランク王国は中世ヨーロッパ世界の中心に

8世紀 ヴェルダン条約、メルセン条約で分裂

ガリア南部

ブルグンド王国(443~534)

6世紀 フランク王国クローヴィスが征服

ブルグンド王国のあった地域が後のブルゴーニュ地方

ブリタニア

アングロ=サクソン七王国

(英名:ヘプターキー)(449~829)

先住民のケルト人を征服、同化させながら各地に定着。

9世紀 ウェセックス王のエグバートが七王国を統一。

 

 

【ノート】16.パルティア・ササン朝ペルシア

セレウコス朝シリアからバクトリアパルティアの2国が独立

 

【1】バクトリア(前255頃~139)

アレクサンドロスの東征以降、東方のアム川上流に移住していたギリシア人が独立

 

【2】パルティア(中国名は安息)(前248頃~後224)

 ●建国者:アルサケス  都:クテシフォン

(遊牧イラン人の族長アルサケスは一族を率いてカスピ海東南に逃れシリアから独立)

 ●アケメネス朝のサトラップ制をまねる

 ●パルティアは東西貿易シルクロード経由)の利益を独占。都クテシフォンは繁栄

 ●前1世紀なかば、東方に進出したローマのクラッススと争う

 

【3】ササン朝ペルシア(後226~651年) 都:クテシフォン

   ~農業に基礎をおくイラン人がパルティアを滅ぼして建国~

[1]初代アルデシール1世(位224~241頃) …パルティアを滅ぼして建国

 ●アケメネス朝ペルシアを模範として中央集権化

 ●ゾロアスター教を国教に定め、国を統一

[2]2代シャープール1世(位241頃~272頃)

 ●西方:ローマ帝国と争い、軍人皇ヴァレリアヌスを捕らえる(260)

 ●東方:インダス西岸に進出し、クシャーナ朝の領土の大半を奪う

[3]最盛期ホスロー1世(位531~579) 

●トルコ系遊牧民突厥と結んでエフタルを滅ぼす

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のユスティニアヌス帝との和平(561)

→ ササン朝ビザンツ帝国の激しい抗争のためメソポタミアの東西交通路が衰退し、

  代わってアラビア半島で交易に当たっていたアラブ人の活動が活発になる

●最盛期を築く。ゾロアスター教の確立に尽力

◎その後、ササン朝ペルシアはニハーヴァンドの戦い(642年)でイスラムの新興勢力(アラブ軍)と対決して敗北。以後弱体化

意義:古代オリエント世界が消滅し、西アジアイスラーム化する。

 

【ノート】15.ローマ文化

《特徴》

①先住のギリシア人、エトルリア人の文化の影響を強く受けた

②実用的な分野でヨーロッパの共通遺産となる功績を残す。特に「」と「建築

③美術・文学の分野ではギリシア文化の模倣におわり、独創的な文化を作り出せず

④しかし、「ラテン語」と「ローマ字」を広域に普及させ、古典文化をヨーロッパ文化の源流として残した

 

【文学】

キケロ…『国家論』『義務論』

 第一回三頭政治カエサルたちと同時代に生きた彼は、雄弁家・弁護士として名をあげた。コンスルの職も務めている。彼はギリシア民主政治思想の影響のもと、理想国家や市民のあるべき姿などについて論じた。政争のなかで暗殺された。

ヴェルギリウス…『アエネイス』

 ローマ皇帝により、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』に匹敵する叙事詩の製作を依頼されて制作したもの。英雄アエネイスのトロヤ脱出からローマ建国までを歌う。

ホラティウス…『叙情詩集』

 解放奴隷の子として生まれ、アカデメイアの学園に学ぶ。ギリシア詩人の影響を強く受ける。カエサル暗殺後の内乱ではブルートゥスの陣営に加わり、軍団司令官としてアントニウスの軍と戦い敗れた。恩赦を受けてローマに帰ったが、財産は没収され、下級官吏の職につきながら詩作を始めた。アウグストゥスの体制を称え、皇帝から宮廷秘書に推されたがこれを辞退して、生涯詩人の自由を守り通した。『叙情詩集』にはギリシア詩人を手本とした自由な作風が見られる。

彼の言葉「征服されたギリシア人は、猛きローマを征服した」(ギリシア文化の優越を言っている)

 

【地理・歴史】

カエサル…『ガリア戦記

 カエサルガリア遠征の記録。古代ゲルマン人研究の貴重な史料。

タキトゥス…『ゲルマニア

 タキトゥスは属州のベルギガ(ベルギー)に生まれたが、幼年期をローマで過ごし、学芸の修得に努めた。高級将校を皮切りに、政治家として高官の地位を上り詰め、コンスルにまで選ばれるかたわら、多くの著作を書いた。『ゲルマニア』では蛮族としてさげすまれているゲルマン民族のなかに質実剛健で高潔な精神が息づいていることを明らかにし、退廃の極みにあった同時代のローマ人に警鐘を鳴らしている。

ストラボンギリシア…『地理誌』

 ギリシアの歴史家・地理学者で「地理学の父」と呼ばれる。歴史書は現存しない。

 当時知られていた世界について述べた17巻の『地誌』はその大部分が現存し、科学的な地誌の手本となっている。例えば、まず地球一般、ついでスペインから各地方を記述するという手法は近代ヨーロッパの地誌においても守られた。

ポリビオス…『ローマ史』全40巻=ローマの拡大過

 第二次ポエニ戦争後の半世紀あまりの間に、ローマが急速に地中海世界を事実上支配下に統合した経過とその理由の究明を中心テーマとし、世界史的視野を強調しつつこれを叙述している。「政体循環史観」に基づいてローマの発展史を叙述している。

リヴィウス …『ローマ建国史』=ローマ建国からアウグストゥスまで

 ローマの歴史家で、皇帝アウグストゥスの文学サークルに迎えられ、40年の年月を費やしてローマ建国よりアウグストゥスの世界統一に至るまでの全142巻からなる歴史記述『ローマ建国史』を著した。この作品は、在来の年代記作家の著作およびポリビオスなどの歴史叙述を集大成したもの。アウグストゥスの平和にいたるまでの大帝国ローマを築き上げたローマ人の徳と力とを賞賛した歴史叙述で、世界帝国の建設者ローマ国民を讃える一大記念碑となっている。

タキトゥス…『年代記』=第2代ティベリウス帝から第5代ネロ帝まで

 『ゲルマニア』を著したタキトゥスが残した歴史書。この歴史書ではティベリウス帝からネロ帝までの50年あまりの事件を綴っている。64年のローマの大火に際して、ネロ帝がキリスト教徒を放火犯人にしたてあげた迫害についても記している。

プルタルコスギリシア人)…『対比列伝 

 日本では『プルターク英雄伝』の名でよく知られる。ギリシア、ローマの政治家・軍人50人の伝記を集めたもので「対比列伝」と称されるのは、一人のギリシア人の伝記に、それに見合うローマ人を配して一組とし、二人の伝記を述べおわったあとに両者の「比較」の章を設けているからである(例えば、ギリシアのデモステネスとローマのキケロの比較というように)。

 

【自然科学】

プトレマイオス ギリシア人)

 太陽・月・惑星の運行を数学的に説明し、地球中心の天動説を唱えた。この説はキリスト教天地創造の世界観に適したため、ルネサンス期にコペルニクスの地動説が登場するまで、1000年以上もヨーロッパで権威を持ちつづけた。

プリニウス…『博物誌

 プリニウスは裕福な騎士を父として北イタリアに生まれ、軍人としての道を歩んだ。ローマで法廷活動に従事するかたわら歴史、文法、修辞学などを研究した。79年8月24日、ナポリ南方のヴェスビオス火山が噴火すると艦隊を率いて調査・救助に赴いたが、噴煙に巻き込まれて死亡した。『博物誌』は天文・気象・地理・人類・動植物などを解説した著作で、37巻からなる。

 なお、このヴェスビオス火山の灰でポンペイの町は瞬時に埋没し、そのためその当時の姿が後世にありのまま残された。ポンペイの町は1748年から発掘が始められた。

 

【哲学】

セネカストア派の哲学者・弁論家。著作は簡潔明瞭で後世の散文に大きな影響を与えた。ネロ帝の家庭教師を勤めたが彼の暴政を批判したため、のちに自殺を強要された。

エピクテトス

 奴隷の身分でありながらストア哲学を学びのち解放された。著作はないが弟子が残した『語録』やその要約『ハンドブック』から彼の思想がわかる。「忍耐せよ、断念せよ」という標語、「われわれのものと、われわれのものに非ざるものがある」という言葉からわかるように禁欲による精神修養を説いている。

マルクス=アウレリウス=アントニヌス…『自省録

 五賢帝最後の皇帝。哲学者でもあり、「哲人皇帝」と呼ばれる。同郷のハドリアヌス帝に目をかけられ、その命令でアントニヌス=ピウスの養子とされた。彼は早くからストア哲学に傾倒し、陣中で書き綴った『自省録』のなかでは、宇宙の理性に従うことを旨とし、謙虚・寛容、神への敬虔、平静さを称揚している。

 

【建築】

コロッセウム(72~80年造営)

 楕円形の円形闘技場。長軸188メートル。短軸でも156メートルある。紀元80年に完成。剣闘士奴隷の戦いや獣と人との戦いなどの見世物が催された。

 

ガール水道橋 アウグストゥス時代に造営

 南フランスのガール県に残る水道橋は前1世紀の建築。全長270メートル。高さ50メートル。水源から都市までをわずかの傾斜でむすぶこの水道橋は2000年以上たった現在でも使用できる。

 水は最上層を流れ、下段は人が通行できるようになっている。

カラカラ浴場

 ローマの浴場は大ホール・競技場。図書館を備えた社交場であった。カラカラ帝が設けた大浴場はローマ市の一大行楽施設となった。一日6000人もの市民が利用できるほどの規模だった。 

アッピア街道 「全ての道はローマに通ず」

 ローマ最古の軍道。石や砂利を何層か敷き詰め、その上に石畳を敷いくという手間をかけて造られている。ローマから南イタリアのブルンディシウムまでの570キロメートルに及ぶ。ローマの領土拡大に伴いその総距離は8万5000キロメートルにも及んだ。正確な走行距離計を用いて、マイル=ストンが1ローマ=マイルごとに建てられ、現在でも8000のマイル=ストンが残っている。

パンテオン(万神殿)            

凱旋門

 

【教父(キリスト教思想家)】

エウセビオス…『教会史』で使徒の時代から323年までの教会の歴史を著わす。重要な史料。

アウグスティヌス…ローマ末期最大の教父。カトリック教義確立。『告白録』『神の国』を著わす。

 

【ノート】14.キリスト教の成立

【1】成立

[1] ユダヤ教(前5世紀成立)の形式化

 ●パレスチナがローマに征服され、ユダヤ教指導者層がその支配を受け入れる

  ⇒ 律法の遵守と形式的な儀礼を重視したパリサイ派  

  ⇒ 次第に民衆の支持をなくす

[2] イエスの登場 …ユダヤ教の形式化を批判し布教

 ●の絶対愛と隣人愛や「神の前の平等」を説く

 ●さらに神の国の到来と最後の審判を約束した

   ※「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じよ。」と説き、祭司たちの形式的な信仰を批判

 ●民衆はイエス救世主メシアギリシア語でキリスト)と呼んだ

[3] イエスの処刑(紀元30年ごろ)

 ●ユダヤ教祭祀の反感…ローマへの反逆だと訴える

  ⇒ユダヤ総督(ローマ帝国の役人)ピラトによりゴルゴダの丘で十字架の刑に処される。

                                    ∟イェルサレムにある

 ●処刑の3日後、弟子たちの間で

  「イエスが復活した、また、十字架上の死は人間の罪をあがなう行為であった」という信仰が生まれる

  =キリスト教の成立

 

【2】発展

[1]ローマへの布教 

 …使徒の布教活動によって、小アジアを経て地中海世界に広がる

●代表的な使徒

 ①ペテロ

  十二使途のリーダー。キリスト教会の長。ローマ教皇は彼の後継者。

 ②パウロ

  「異邦人の使徒」。ローマ市民権を持つギリシア人。神の愛はユダヤ人以外の異邦人にも及ぶと説いた。

  ⇒小アジア・シリア・ギリシア・ローマに広がり、特に下層市民や女性、奴隷に信仰される

   ※二人はともに64年のローマの大火に乗じてのネロによる迫害で殉教

 意義:エスの教えは民族・宗教を越えて、普遍的な世界宗教となった。

●3世紀ごろまでに『新約聖書』にまとめられ、ギリシア語のコイネーで書かれた

…「四福音書」「使徒行伝」「パウロの書簡」「ヨハネの黙示録」など27巻。

 ※キリスト教の教典は『旧約聖書』と『新約聖書

[2] 信仰の拡大…教会・五本山の成立(教会はペテロが礎(いしずえ)を築く)

●五本山=①ローマ       ②イェルサレム   ③コンスタンティノープル 

      ④アンティオキア ⑤アレクサンドリア

 

【3】迫害から国教化へ

[1] ローマ帝国による迫害 …多神教信仰であるローマでは、一神教信仰であるキリスト教を受け入れられなかった

 ●ネロ帝…ローマ大火の責任をキリスト教徒に転嫁。ペテロとパウロは殉教(64年)

 ●ディオクレティアヌス

  ・皇帝の神格化を進め、皇帝への崇拝を拒むキリスト教徒を迫害(303年)

  ・キリスト教信者・聖職者を逮捕。「聖書」を焚書に。約3000人が犠牲に。

   =ローマ帝国最後のキリスト教徒迫害

  ⇒迫害の中の信仰 =カタコンベ(地下納骨堂)での礼拝

[2] キリスト教の公認

 ●ミラノ勅令(313年) …コンスタンティヌス帝の時代 ⇒キリスト教公認

 [理由]ローマ帝国の「3世紀の危機」が続くなか、キリスト教信仰を統一に利用

 ●ユリアヌス帝(位361~363)…古来の多神教の復活を試みるが、背教者と言われる

  ⇒死後、キリスト教に復帰。キリスト教の信仰がローマ社会の上層にも浸透

 ●キリスト教国教化(392年) …テオドシウス帝の時代

  ⇒アタナシウスキリスト教を国教とし、他の宗教を厳禁

  ⇒教会は国家の保護を受け、聖職者の階層化が進む

[3] 正統・異端論争 …イエス死後、約300年を経て、教義を巡る論争が起こってきた

 ●ニケーア公会議(325年) …コンスタンティヌス帝の時代

   アタナシウス派:神とイエスは同一であると主張 ⇒ 正統とされる

   アリウス派:イエスは人間と主張 ⇒ 異端とされ、ゲルマン人に布教

  ⇒ 正統教義の確立…アタナシウス派三位一体説が理論化

  =「父なる神と子(キリスト)と精霊は、三つのペルソナ(面)をもつが一体である」

 ●エフェソス公会議(431年) …ネストリウス派が異端とされる。

                   …キリストの神性と人性を分離する考え

  ⇒ササン朝を経て唐代の中国に伝わり景教と言われる

 ●カルケドン公会議(451年)

  …教皇レオ1世の要請で単性論(キリストに神性のみを認める立場)を否定

[4] キリスト教思想家(教父)の活躍

 ●エウセビオス (4世紀)…『教会史』で使徒時代から323年までのカトリック教会の歴史著わす。

 ●アウグスティヌス(5世紀) …『告白録』『神の国』を著した最大の教父

(1) キリスト教の協議

 ①アタナシウス派…神とその子イエス聖霊の3つを一体とする

 ②アリウス派…キリストの人間性を強調

 ③ネストリウス派…キリストの神・人両性論

【ノート】13.ローマ帝政の盛衰 (ローマ③)

【1】元首政(オクタヴィアヌス)(位前27~14)

●前27年 元老院よりオクタヴィアヌスに「アウグストゥス(尊厳者)」の称号

           実質的には初代のローマ皇帝であり、ローマ帝国が成立(=帝政開始)

●特色 

 ・皇帝は「市民の中の第一人者プリンケプス)」とされる

 ・実際には最高司令官・執政官・護民官を兼任して全権力を握り、独裁政治を行った

  =「元首政(プリンキパトゥス)」

(1) アウグストゥス帝から五賢帝までの時代(紀元1~2世紀)をパクス=ロマーナ(ローマの平和)という。

(2) アウグストゥス以来の帝政を「元首政(=プリンキパトゥス)」というのに対し、ディオクレティアヌス帝以降の帝政を「(東方的)専制君主政(=ドミナトゥス)」という。

 

【2】ネロ帝 キリスト教徒大迫害~

…ローマの大火(64年)に際してキリスト教徒大迫害

(3) 紀元79年にはウェスウィウス火山が噴火。ポンペイ市は埋没した。今は貴重な歴史遺産。

 

【3】五賢帝の時代 (96~180) ~ローマ帝国の最盛期~…全員養子

ネルヴァ→ ②トラヤヌス…領土が最大となる

→③ハドリアヌスブリタニアに長城 → ④アントニヌス=ピウス

→⑤マルクス=アウレリウス=アントニヌスストア派の哲人皇帝。主著『自省禄

(4) マルクス=アウレリウス=アントニヌスの使者が後漢時代の日南(ベトナム)に到着したと後漢書に記述あり。マルクス帝は大秦王安敦と表記されている。

 

【4】カラカラ帝 ~市民権の拡大~

●属州の拡大…ローマは属州の都市の上層市民に市民権を与えて、統治に協力させたが、

       重税に苦しむ下層市民も市民権を要求するようになった。

アントニヌス勅令(212)…属州を含む帝国の全自由民にローマ市民権を付与 

     ⇒ ローマ帝国地中海世界全体を支配する「世界帝国」に 

 ※市民法 ⇒ 万民法

(5) カラカラ帝は民衆の娯楽施設としてカラカラ浴場を建設。

 

3世紀の危機 

 …3世紀にローマ帝国は財政難、経済の行き詰まり、異民族の侵入などで動揺

 

【5】人皇時代(235~284)

 ~兵士が自分たちに都合のよい将軍を皇帝にする時代~

●50年間に26人の皇帝が入れ替わる

●背景 北方からのゲルマン人、東方からのササン朝の侵入

 ⇒財政難にもかかわらず兵士の給与を上げることを約束した軍人が推薦されて皇帝に

●ローマ社会の変化

・内乱と異民族の侵入 → 軍事力の増強 → 帝国の財政圧迫 → 都市への重税

 → 富裕層は都市を離れ、田園で大所領経営 → 都市から流出した下層民を小作人

・征服戦争の終わり →  奴隷の供給がとまる → 解放奴隷から小作人になるものが増加

・従来の奴隷制によるラティフンディアに代わり、小作人コロヌスに土地を小作させ

 地代を取る小作制コロナトゥス)が一般化

(6) 軍人皇帝時代は235~284年。帝国は混乱し軍団が各地に皇帝を擁立。26人の皇帝が乱立。その1人ヴァレリアヌス帝はササン朝ペルシアのシャープール1世との戦いに敗れ捕虜に。

(7) 隷属する農業小作人コロヌスといい。没落自由民や解放奴隷がこの農業小作人になった。彼らを使役する土地経営をコロナトゥスという。コロヌスは特に軍人皇帝時代に増加した。

 

【6】ディオクレティアヌス帝(位284~305)

 ~人皇時代を終わらせ、専制君主制をはじめる~

専制君主(ドミナトゥス)… (東方的)皇帝専制政治を導入し皇帝崇拝を強要

四帝分治制(テトラルキア)…東西に二人の正帝、二人の副帝

●最後のキリスト教迫害

 

【7】コンスタンティヌス 帝(位306~337) ~キリスト教を公認~

●313年 ミラノ勅令キリスト教公認

●325年 ニケーア公会議アタナシウス派を正統とする

●330年 コンスタンティノープルに遷都=ローマ帝国の繁栄の中心が東方へ

●コロナトゥス制の強化…税収の確保のため、コロヌスの移動禁止

ソリドゥス 金貨の鋳造と発行…兵士への支払い、商業活発化

(8) コンスタンティノープルの旧名はビザンティウム。「ビザンツ帝国」の名の由来。

 

ゲルマン人の大移動  (375年)…帝国内部への侵入が始まる

【8】テオドシウス帝 ~ローマ帝国の東西分裂~

●392年 キリスト教国教化(異教禁止) ※ミラノ勅令と区別

●395年 ローマ帝国の東西分裂 …二人の子に帝国を分ける

 ①東ローマ帝国(ビザンツ帝国)…1453年まで存続

 ②西ローマ帝国 …ゲルマン人傭兵隊長オドアケルに敗れて滅亡(476)

 

【ノート】12.ローマ内乱と三頭政治(ローマ②)

 

内乱の1世紀グラックス兄弟の改革(前133)~オクタヴィアヌス勝利(前30)

~流れ~

【1】グラックス兄弟の改革

【2】共和政ローマの内乱

【3】第1回三頭政治

【4】第2回三頭政治

 

 【1】 グラックス兄弟の改革(前133~前122)…護民官となり、改革にあたる

【狙い】中小農民の没落を防ぐため (中小農民=重装歩兵)

【内容】農地改革…大土地所有者の土地を制限し、無産市民に分配しようとした。

               ↑リキニウス・セクスティウス法の復活(公有地の制限)

  ⇒ 保守派貴族の反発

  ⇒ 兄ティベリウス暗殺、弟ガイウス自殺

 

【2】共和政ローマの内乱

 

マリウスの軍制改革(前107~101)…職業軍人制の確立(軍隊の私兵化の進行)

  ⇒以降、内乱の1世紀のピーク

同盟市戦争(前91~前88)

イタリア半島内の征服地…植民市・自治市・同盟市の3ランク(1)⇒同盟市が最も不満

  …イタリア半島の同盟市がローマ市民権を要求し、おこした反乱

 ⇒半島内の全自由民に市民権を付与。ローマの都市国家的性格薄れる

③ 政治抗争(前88~前82) …有力者が互いに軍隊を私兵化して争う

 平民派(ポプラレス)…マリウスグラックス兄弟の流れ汲む)

   vs 閥族派(オプティマテス)…スラ元老院・保守派勢力)

 ⇒スラ独裁官となり、平民派を弾圧

④ 奴隷の反乱

  ●スパルタクスの乱(前73~前71) …剣奴の大反乱でローマ陥落危機、しかし平定

(1) ローマの征服地はイタリア半島外は属州、イタリア半島内は以下の3ランクに分類される。

 ①植民市:ローマと対等 

 ②自治自治容認・参政権なし 

 ③同盟市:軍役義務・参政権なし

 

 【3】第1回三頭政治(前60~前53)…有力な三人が元老院を無視して同盟(秘密協定)

ポンペイウス(軍人) スラの後継者。やがて元老院と結ぶ

カエサル(平民派、有能) 力を蓄えるため8年間のガリア遠征

クラッスス(大富豪) パルティアで戦死

 ⇒クラッススの死後、カエサルポンペイウス(元老院が支持)が対立

           「賽は投げられた」

 ⇒カエサルがエジプトに逃れたポンペイウスに勝利 ※このときクレオパトラと近づく

 ⇒前46年 カエサル独裁官に選出(インペラートルの称号、さらに終身独裁官に)

 ⇒前44年 共和派ブルートゥスらにより暗殺 「ブルートゥス、おまえもか」

 

【4】第2回三頭政治(前43~前30)公の協定

オクタヴィアヌス カエサルの養子

アントニウス 元カエサルの右腕

レピドゥス 元カエサルの部下…政治力が劣り、失脚

 ⇒ アクティウムの海戦(前31)  オクタヴィアヌスvs アントニウス

              ※アントニウスプトレマイオス朝クレオパトラと結ぶ

 ⇒ オクタヴィアヌスが勝利し、ローマはエジプトを「属州」に

 ⇒ ローマによる地中海世界の統一 

【意義】①内乱の1世紀を終わらせ、ローマの支配が地中海全域に及んだ。

    ②プトレマイオス朝エジプトが滅亡し、ヘレニズム時代が終焉した。

     ⇒ オクタヴィアヌスにより帝政が開始される(前27)

     =ローマ帝政時代へ